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映画『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』、初日から観てきた。
時間のある時にでも、とは思っていたけど、大阪での初日に須藤晃さんの舞台挨拶が急遽決定というニュースがSNSで流れてきたので、わざわざ京都から大阪に出向いたのだった。
残念ながら1日とはいえファーストデイの割引がきかなかったけど、上映後には須藤さんに握手して頂いたので、行った甲斐もあったというもの。

今年は尾崎豊没後20年ということで「尾崎豊特別展 OZAKI20」も開催されて、大阪でも7日からBIG STEPで決定しているのでそちらもいくつもり。

実は僕は「尾崎豊特別展」の方が楽しみだった。というのも僕は尾崎豊というより田島照久さんのファンなのである。
浜田省吾さんのファンの僕は、浜田さんのジャケットデザインが掲載されている本「COVERS’ EDGE」を見てMacでデザインやりたい、といってみれば人生変えられたわけだが、この本で浜田省吾・尾崎豊という似たタイプのミュージシャンの二人のアートワークを同じ人がやってることを知ったのだった。
田島さんみたいな仕事ができたらなあ、と思ってた僕は2010年の「浜田島」大阪展にも2回足を運んだぐらいである。

なので今回の「尾崎豊特別展」も僕にとっては「浜田島」の続きみたいな感じがしていたけど、尾崎豊自体の評価というのはどうなのだろうか。
「俺はまだ誤解されている」というコピーがあったけど、どうも今でも勘違いされている気がする。

かといって僕が正当なわけではないんだけど、香山リカさんが今の学生は尾崎に共感しない、とどこかで嘆いていたけど、同世代の人間がみんな尾崎を肯定していたわけではない。
僕も正直敬遠していたし、今よりもっと否定的に見る人もいた。
僕に限っていえば、免許取る前からバイク好きだった僕は「盗んだバイクで走り出す」という歌詞は大嫌いだったし、校舎の窓を割るような歌など聴きたくもなかった。
友達に聞かせてもらった「誕生」だって引いただけだった。

ただ、それは反抗心が理解できなかった、という意味ではない。
バイク盗ったり窓ガラス割ったりしてれば周囲と軋轢起こすのは当たり前である。
僕みたいに何もしてないのに叩かれまくったのとはわけが違う。
髪を染めたこともなく高校三年間欠席ゼロで、部活も委員会もやっていた僕をつかまえて、当時の担任は懇談会で、うちの親に「あの子は頭痛める子です」といったらしいのだが、それに比べれば、尾崎の場合は自業自得としか思えない。
うちの親も人をつかまえては2〜3時間もクズだ最低だ、と罵りまくるような人間だったから、尾崎豊みたいに自分で悶着起こしておいて大人とわかり合えない、はないだろう、と思っていた。
(余談であるが、僕自身学校は結構楽しかったと思っているが、「教師」という人種に偏見が抜けないのは最後の担任がこれだったからだと思う。それ以前に僕が校則通りの格好をしていたのは教師と口聞きたくなかったからだ。)

では何で聞くようになったか、というとジャケットデザインが田島さんだったのと「路上のルール」は好きだったので、ジャケットの好きなライブ盤「Last Teenage Appearance」を聴いてるうちにだんだん耳が慣れて、10代でこの表現力は凄いな、と客観的に聴けるようになったんである。
したがって、生粋の尾崎豊ファンからすると僕はかなり外れたところにいる。

しかし、確かに「教祖」「カリスマ」と称され、葬儀でも4万人集まったというからもちろん熱狂的なファンはいたのだが、僕のまわりではほとんど尾崎豊が話題になったことはない。
教科書に載るほどになったのは驚きだけど、決して当時から国民的スターというわけではなかったのだ。

なんと今年のNewsWeekに「尾崎豊の再評価が不要な理由」という記事が載った。
この記事にある朝日新聞の社説「成人の日に―尾崎豊を知っているか」をネットで探して読んでみたんだけど、この社説にもNewsWeekの記事にも違和感を覚えた。

まず前提として尾崎豊を校内暴力の反抗の象徴みたいに捉えるのとはちょっと違うのではないか。
尾崎の前の浜田省吾さんは「学校には馴染めないけど暴走族にも入れない」少年たちに向けて、と言ってたけど、尾崎豊の場合はまさにそのタイプを極端にした形で、歌詞の内容はともかく僕の知人やメディアなどで見る尾崎ファンというのは、実際に「反抗」的・「暴力」的行動に出られなかった人が多かったように思う。
「卒業」を聞いてほんとに窓ガラス割ったのがいたらしいが、それは反抗ではなくただの馬鹿である。
自分の存在が分からないだの、自由を感じたいだの理由でバイク盗るヤツが現実にいるわけがない。

それに「ロックを聴いたら不良になる」という、クラシックファンの僕ですら仰天する理由でハウンドドッグのライブで中学生が入場禁止になったのは尾崎が亡くなる1年半前のこと。
まだロックという音楽自体に「反抗の象徴」の意味合いが残っていた時期でもあった。
実際、当時は学校に対する反抗を歌うミュージシャンは他にもいたが、尾崎の歌詞の方が内容は逆に内省的だ。
尾崎豊を聴けるかどうかは、むしろこの陰性を受け入れられるかどうかではないか。

それに「音楽」である以上、尾崎豊がいまだ現役クラスの人気を誇っているのは、ボーカルとパフォーマンスだと思う。
好き嫌いは別にして、ミュージシャンとして不世出なのは確かだろう。
(幸か不幸か、僕はこういう風に客観的にしか聴けないのだが。)